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読書メモ:ファビエンヌ・ブルジェール(2013/2014)『ケアの倫理 ネオリベラリズムへの反論』(原山哲・山下りえ子訳)白水社文庫クセジュ


 西見奈子『フロイトの灯』の副読本として、ファビエンヌ・ブルジェール(2013/2014)『ケアの倫理 ネオリベラリズムへの反論』(原山哲・山下りえ子訳)を読んだ。近年盛んに論じられて出版されている「ケアの倫理」に関する書籍の一つ。4月に行った神保町ブックフェスティバルの白水社のブースで購入して、積ん読になっていたもの。


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 著者の主張は比較的シンプルで、合理的・個人主義的な道徳と、関係性・気づかい・社会的絆によって生成される倫理とを対置させ、ケアとはまさに倫理の問題であり、伝統的にケアは女性のものとされてきたことを指摘することで、逆説的にこれを女性だけのものであることから解放することを狙うものである。


「心づかいとは、弱い人間が言葉を話すようになり、依存しない状態になれる可能性に関心をもつことだ。しかし、弱い人間は、自分になされる配慮にどう応えるかは自由である。」(p.100)というのが著者の主張のコアであると思ったし、心理臨床のコアでもあると思うが、依存と自律の複雑な関係は一筋縄ではいかないことは、臨床実践を行う者ならばみな実感するところであろう。


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 本書の主題から少し逸れる連想かもしれず、心理臨床の話ともずれるが、本書に照らせば、「合理的配慮」というのもなかなか葛藤的なニュアンスを端から含む因果な言葉であって、ここからくる現場での実践の難しさが、陰に陽に反発を生むようなことになっているのではないかと、教育に携わる立場からはもやもやと考えさせられた。「国家は、臨床心理学や、カウンセリング、当事者の語りを、公共政策に導入する。だから、社会的処遇は、政策として検討されずに、ばらばらの断片的な実践となる」(p.118)とあるところが、面白さでもあり難しさでもあるなと。


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 心理臨床の現場に即して言うならば、クライエントのみならずセラピストも、自分の弱さを認め、そこにどれだけ目を向けられるかどうか、であろうか。


 自らの弱さを認め、自らをいたわることについては、近年、セルフ・コンパッションやセルフケアといった用語で、(その反対のセルフ・ネグレクトという言葉とともに)よく触れられるようになった。このあたりについては、以前に映画『カーテンコールの灯』を題材にして書いたけれども、この映画に描かれていたように、自らの弱さや痛み・傷つきに気づいたあとに、そのケアは“セルフ”のものにしないことがケアの「倫理」ということなのだろうと思う。


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 とはいえ、心理士が活動するあらゆる領域にも経済効率を優先するという“道徳”が染み渡っているから、ケアの倫理を実践に持ち込むにはなかなか骨が折れるし気骨がいる。それこそ戦うのではなく、ケアの心で声を出し続ける必要があることなのだろう。とても難しいけれど。



<参考文献>

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