読書メモ:エーリッヒ・ノイマン著(1949/2006)『意識の起源史 改訂新装版』(林道義訳)紀伊國屋書店
- 心理臨床オフィス ポーポ

- 2 時間前
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ユング派の発達理論をまとめたものとしてよく知られるのがエーリッヒ・ノイマンの『意識の起源史』である。神話に読み取られるような人類の集合的なイメージの伸展が、一人の人間の心理的な発達や伸展とパラレルであるということを丹念に論じた本で、これをさらに、心理療法の展開と重ねて読み取る視点を持てば、我々臨床家にとっては折りに触れ読み返したい一冊となる。(ここでいう「心理療法」とは、人間とは何度でも生まれ直し生き直すことを“強いられる”、その生まれ直しの場を提供するのが心理療法である、という、そのようなものである。)
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内容の要約としては吉本隆明によるものが的確であるのでそちらを読んでいただくとして、今回久しぶりに通読し直して感じたのは、ユング派のポジティブさである。フロイト派との対比としてよく論じられる点であるが、とにかく何にでも可能性を見出す。例えば、身を滅ぼす破壊性を持ったものとしての自己愛の象徴として理解されるナルキッソスの逸話も、ノイマンの手にかかれば、対象として見られるような自己像が分化しつつあるんだから、次元の異なる自己の発現の契機として見たほうがいいと、ということになる。
こうしてノイマンの(というかユング派の)ポジティブパワーを浴びながら読んでいて、昔からあまり納得が行かなかった点も少し理解できたように思った。なにかというと、ウロボロスのことである。ウロボロスとは未文化性を象徴するもので尾を噛むヘビによって表現される(といつも紹介される)。でもこの話を聞くたびに、ウロボロスという図が地から分離している時点で未分化ではないし、噛んでいるからループしているとは言え、頭と尾という区別もあるんだよね??という思いが湧き上がるのである。しかしおそらく、ユング派的な理解で言えば、これらは次の段階への可能性を包蔵したものとして、そういう形をしている必要があるということなのかも、と思う。つまり、自分のものとは言え尾を噛んでいくという能動性を含んでいることが大事であり、その気になれば頭と尾に分化する可能性をすでにはらんでいることの方が大事。それが次の段階へと進む動きとエネルギーを表現しているのだ、と。そして相談初期のクライエントの状態はウロボロス的である――悩みにしがみつきそれによって自分に栄養を補給している状態――と考えるならば、そこにエネルギーと分化の可能性を見出しておくことは必須であるとも思う。
それから、ポジティブかつ目的論的なユング派の視座というところともおそらくかかわって、いわゆる対象関係以前の未分化な世界についてたっぷりページ数を取って論じられているのも興味深い。対象関係的な世界ができて、母権制から父権制へと進んでいくところも、「母殺し」が描かれているところでエディプス・コンプレックス論と対照的である。
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このように、何度読んでも発見がある本である。論旨自体は明確なので、いわゆる鈍器本とはいえ、構成を先に掴んでから読めばそれほど苦労せず読み切れるのではと思う。エーリッヒ・ノイマンには、本書の骨子を抽出したような『こども 人格生成の構造と力学』という著作もあるが、『意識の起源史』の方が具体的な神話モチーフがもりだくさんで読んでいて楽しい。(ちなみに、『こども』の方は、本能に代わるものとしての「愛」の変遷について書かれており、昨今の愛着理論と関連させて読んでも面白いだろうと思う。)
ただし、本書で採択されている神話に偏りがあって東洋のものはないし、あくまで西洋近代的自我の確立について論じられている限定付きで読む必要がある。したがって、日本のさらに現代の我々の心性にどこまで当てはめられるだろうかとは思う。とはいえ、我々が社会に適応するということがどのようなことかと考えてみると、それは西洋近代的な自我の形成が前提とされているように思われるし、ノイマンがここで想定しているような心的発達のモデルを知っておくこと自体は極めて有意義ではあると思う。我々は全く異なる神話体系を持っているのに、ノイマンの発達モデル(=西洋近代的な自我)に準じたシステムをこつこつと作り続けてしまっているのかもしれない、などと考えてみると、様々に表現される(そして臨床家を訪れる理由になる)様々な事象の成り立ちがわかるような気もする。
こういったモヤモヤも含めて、読書会などでワイワイ感想を語り合うのにも向いている本でもあるかもしれない。
<参考文献>
エーリッヒ・ノイマン(1949/2006)『意識の起源史 改訂新装版』(林道義訳)紀伊國屋書店
エーリッヒ・ノイマン(1963/1993)『こども 人格生成の構造と力学』文化書房博文社




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