言葉の力の光と影――映画『ビーイング・チャーリー』に見る、意志によるコントロールの不可能性について(ネタバレあり)
- 心理臨床オフィス ポーポ
- 2024年8月2日
- 読了時間: 5分
映画『ビーイング・チャーリー』は、『スタンド・バイ・ミー』のロブ・ライナーが監督した、ある青年の物語です。
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主人公はチャーリー、父は海賊役を得意にしていた俳優で、現在カリフォルニア州知事に立候補して選挙戦の真っ只中です。母はそのような父の活動に付き合いながら、どうも乗り切れていないようです。チャーリーは18歳の誕生日を薬物の更生施設で迎えますが、そこから逃亡するシーンから映画は始まります。
両親の対立があらわになるのは、チャーリーの処遇が問題になるときです。逃亡したチャーリーを次の施設にいれるのかどうか、入所した施設での外泊許可を与えるかどうかーー多くの人が想像する通り、父は厳格な対応を、母は慈愛に満ちた(ように見える)対応を望みます。
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そこで、ではチャーリー本人はそう思うの?どうするの?というところですが、これは初めからはっきりしていて、自分のことは自分で決めたい、ただそれだけです。父とも違う、母とも違う、自分は自分。そうあるために、更生施設では“話す”ことを要求されます。プログラムとして実施されているエンカウンター・グループや自助グループでは、“話す”ことと、(自分自身を含む)話した人を“受容する”ことが強調されます。また、問題が発生したときにスタッフがまず掛ける言葉も「話せ」です。チャーリーもその方法に感化され、葛藤するガールフレンドに「話せ」と迫ったりします。
チャーリーは最後に「雑音を消したかったから」薬物に走ったのだと父に打ち明けますが、この「雑音」は、外には出せない自分の内のごちゃごちゃして整理のつかない思いを指しているように思えます。そうだとすると、その思いを吐き出し誰かと整理し、自分の中に収め直す「対話」という手法は、薬物依存の治療にとって、たしかに有効だと思われます。
ところが、このように一見すると善であり、妥当な方策だと思われる「対話」ですが、この映画では、口から吐かれる言葉は強い力を持つゆえ、「対話」はそう簡単なものではない、というところがこのあとこの映画では描かれていきます。これがたいそうリアルであり、また言葉を扱い「対話」を仕事にする者からすると、考えさせられるところ大でした。
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まず、ガールフレンドのエヴァですが、外泊許可が出たりして、自由が増えていくほどに悩みを深めていきます。「話せ」とチャーリーは言いますが、エヴァはただ黙るのです。言葉が意志の発露だとすると、言葉が出ないということは、意志の表明への抵抗または恐怖があるということでしょう。たしかに、自分の意志で世界を切り開くには、この世はあまりにも広大で圧倒的です。エヴァにとって、その恐怖に打ち勝つには薬物やアルコールしかなく、それはチャーリーがたどってきた道でもあります。結局、エヴァはアルコールを飲みチャーリーの前から姿を消します。これは、話すという形で自分の中の毒の放出ができなかったために毒が自分の中で回ってしまったというようにも見えますし、チャーリーはそのようにはならない、ということを暗示しているようにも思えます。
もう一人、言葉の毒にやられてしまった人がいます。チャーリーの親友のアダムです。アダムは飄々と生きている大学生として登場し、施設入所後にもチャーリーの能力を信じ、支える良き友です。チャーリーが最初の施設に入所するきっかけとなった薬物摂取の現場に一緒にいたのですが、一人がオーバードーズで亡くなり、チャーリーが施設に収容される中、アダムだけはなんともなく、翌日から高校生活に復帰していました。薬物とアルコールを摂取しながら、その頃の思い出話をするチャーリーとアダム。チャーリーが「お前は何事もうまくすり抜ける」というのですが、アダムは「あのとき迎えに来たうちの親は、ずっとだんまり。うちに帰ってようやく口を開いたと思ったら、“大学入試が近いから宿題をしなさい”と言ったんだ」と打ち明けるのです。その後、チャーリーがトイレに行ったちょっとした間に、アダムはオーバードーズの発作を起こし、チャーリーは救助しようとしますが、結局亡くなります。これは、直接の死因はオーバードーズですが、抑え込んでいた出来事や思いを言葉にしてしまったために、その毒気と薬毒とが拮抗し、死を呼んでしまったように思います。
かように、言葉というのは話さなくてもだめ、話しすぎてもだめ、ほんとうに取り扱いの難しいものだと思わされます。
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そしてこの映画でもっとも印象的だったのは、最後のくたびれ果てた父の姿です。マッチョな上昇志向に支えられ、強い意志によって自他をコントロールすることによって成功することを信じ切っていたような人でしたが、知事に当選してチャーリーの前に姿を表した父は、疲れ切り、困惑しているように見えました。それは、チャーリーとの関係性が難しいものとなっていたから、だけではないように思います。もはや、本当に知事になりたかったのか、知事になりたかったのは誰だかわからない、なんだったらそもそも知事になんてなりたくなかった、というような有り様で、要は、自分で自分に掛けたマチズモの呪文みたいなものが解けてしまったということなのでしょう。ここにも一つの、言葉(と行動)というものの呪詛の力の功罪のようなものが見える気がします。魔法が解け、父にとっての人生はこれから始まるのだろうと思わされます。
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最後に、チャーリーは、いつも孤独を癒やしてくれていたスタンダップコメディの世界に進んだことが示唆されて映画は終わります。スタンダップコメディが好きで詳しいのには父の影響があるようですし、コメディアンとしての才能を支持してくれていたのはエヴァとアダムと施設職員のトラヴィスでした。また、母は、どのようであってもここにいていいのだという基本的信頼感をチャーリーにもたらしていました。こうして様々な人の存在を取り入れながら、人生のままならなさというものを、言葉の力によってバランスを取りライドしてみようということですが、嘘で真実をつくスタンダップコメディは、その手段として優れているように思います。
人生は映画ではないので、ヒーローが現れて問題を解決したりすることはそうそうありません。出会う人がみな善と悪の両方を持っていて、それがたまたま効力を発揮して他人の人生に知らぬ間に影響を与えてそうして人は生きていくのです。この「たまたま」をどう考えるか、ということを描いた、なかなか味わいのある映画でした。
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