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小さな定住革命――雑草は抜かれなくてはいけないの?


 このところ私が心奪われている、当オフィス卓上のエケベリアの鉢ですが、脇からなにかの草が生えてきました。この土は、植わっていた木が枯れたのでベランダに放置していた鉢から拝借したもの。ベランダに置いている間に、どこかから種が紛れ込んだのでしょうか。


 前回のエントリーの写真も、よく見ると実は手前に小さな芽があるのですが、あれよあれよという間に伸びてきて、「これは生えておるね」というような状況になってきました。このところ、この草をどうしたものか……と考えるのが日課になっています。


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 土や水や栄養の奪い合いになること、また美観を考えてもおそらく一般的には抜くものなのでしょうが、どこかから紛れ込んで生えてきたものを、美観などという人間の勝手で抜いてしまうというのはとても抵抗がある。しかしそもそもエケベリアを買ってきて、鉢に植え込むという時点で大いなる“反・自然”ではないか。とはいえ、人為的に植えたものと同じ場に、自然が殴り込んできた(というほど暴力的なものではありませんが)という偶然それ自体を楽しみたい…でもどこまでどう伸びるのかもわからないし………。


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 定住し、農耕を始めることが時間的・空間的・心理的“待ち”を生み、それこそが退屈の起源なのだ……ということを教えてくれたのは國分功一郎『暇と退屈の倫理学』ですが、自分のオフィスに鉢を置き、そこに植物を植え込むという行為は、私にとってはまさに「定住し、農耕する」ことです。過去(草の種はいつどこからやってきたのか)と未来(どこまでどう伸びるのか)と現在(確かに草がある)を移動しながらあれこれと空想するのは、豊かな退屈・遊びとしての揺らぎ、という感じがします。結局、こうして抜くか抜かないか……と悩んでいられるのも、手のひらの中で眺めていられるサイズの“自然”だからでしょう。つまりこれは、揺らぐ心というものを、手のひらサイズの器として、また、そこに充盈するなにか自体として、眺めて手を入れられる対象と捉える体験でもあります。そしてこれは、心理療法の起源に触れるような大切な営みだろうと感じているので、もう少し揺らいでみたいと思っているところです。



<参考文献>

ロイス・キース(2003)クララは歩かなくてはいけないの?.明石書店

國分功一郎(2015)暇と退屈の倫理学 増補新版.太田出版

西田正規(2007)人類史のなかの定住革命.講談社学術文庫

 

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