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命が命を慈しむこと-映画『私は白鳥』について(2022.10.21一部加筆)

更新日:2023年3月11日



 配信で、映画『私は白鳥』を見ました(画像はHPより引用)。富山に住む澤江さんが、越冬に来る白鳥を追い、撮り、声を交わし合う姿を4年にわたって取材した映画です。


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 映画の中心になっているのは、羽の折れた一羽の白鳥と澤江さんとの交歓。ここでの「交歓」とは、喜びだけでなく、飛べずに仲間とはぐれる孤独も、それでも飛んで自由を味わおうとする希望も、それがくじける痛みも、個体としての生命の終焉も、何もかもともに味わおうとする、そんな姿です。雪まみれになり、まさに命を削りあってともにいようとする澤江さんですが、どこまでいっても一体にはなれないという哀しさもまた、そこにはあるように思いました。


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 とても素晴らしい映画だと思いましたが、引っかかる点がなかったわけではありません。澤江さんがこれまでどのように生きてこられたのか、インタビューをしているところがあるのですが、どうもその編集の仕方が、“独身男性が人恋しさから、その代理として?紛らわすものとして?白鳥を追い続けている”というストーリーをほのめかしているように見えてしまうのです。つがいからはぐれ、一羽でいる白鳥に自らの姿を投影しているという見方です。


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 どうして私はここに引っかかりを覚えたのか。


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 映画の中に、いくつか忘れがたい澤江さんの語りがありました。メモを取ったわけではないので正確ではないのですが、「白鳥が白鳥を世話している」「とにかく命を楽しんでほしい。私も命を楽しむ」。胸が突き上げられるような言葉です。

 一方で、“つがいとなるパートナーがないこと”“それを寂しい事態であると判断すること”は、極めて人間的な、「世間」を基準にした価値観に基づいたものの見方であるように思います。(ですから先の段落であえて「“人”恋しさ」と書きました。)一般的に理解しがたい存在に出会ったとき、人間は理由を求め、物語を作ることによってそれを受け入れていくことができるという側面はありますから、人々の間に流通することが望まれる映画作品としては、このような文脈を紛れ込ませることにも意義があるのだろうとは思います。(そしてこの「物語」を作ることが心理療法であるとされることも往々にしてあります。)

 しかしこの映画に映し出されているのは、人間であるとか白鳥であるとかそういった属性を超えた生命賛歌であるように思います。とにかく生命が生命を慈しみ尽くすことーー私が考える心理療法の真髄とはをこれであると思うのです。この映画の“物語”は、このことを逆説的に教えてくれるように思いましたし、それによって私は、引っかかりのからくりに気がつくことができました。   (2022.10.21 一部加筆しました)



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