強迫という鎧とその破綻――映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』
- 心理臨床オフィス ポーポ

- 8月5日
- 読了時間: 4分

1975年公開の映画『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』(監督:シャンタル・アケルマン)を見ました。
主演俳優であるデルフィーヌ・セリッグが監督した作品『美しく、黙りなさい』が現在、国内で初めて上映されていて、その関連作品として再上映されているものです。
(『美しく、黙りなさい』もまた重要な作品なのですが、それはまたいつか項を分けて。)
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息子と暮らす一人の寡婦の3日間を描いた作品。
アラームと玄関の呼び鈴を合図に、曜日ごとの動き方を決め機械のように日々を回していく主人公ジャンヌ。ところが、何ミリかずつそのルーティンがほころび始め、とうとうある重大な出来事が発生する……というストーリー。家事をする姿が据え置きのカメラで捉えられ、ジャンヌの手際を見ていれば(最初は)退屈しません。また、あれ?と思う出だしと、少しずつ訪れる破調の予感とが、見ることを止められない要因の一つになっています。とはいえ、見終わると、ぐったりと疲れている。
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主婦とはいかに抑圧されたものか……ということを198分という長尺で見せ、フェミニズムの観点から語られることが多い作品です。最後のある一瞬を除いて“動”の作品ではなく、かなり強い抑圧された感覚を強いられる鑑賞体験です。しかし、その抑圧の追体験こそ他の作品では得られないものであり、こうして表現される主婦というものへの批評的な視点が、この作品が評価されているポイントの一つであろうと思います。
2年前に見たときには、「そうそう、ほんとに、家事担当者ってのは抑圧されてんのよね」というメッセージが強く残りました。しかし今回再度鑑賞して、ルーティンといえば聞こえのいい強迫的なあり方というのは、柔軟さがないがために脆弱であり、破綻もまた強烈な形で吹き上がってくる、ということが強い印象を残しました。
また今回は、強迫的な防衛が周囲に強いてしまう抑圧について、あらためて考えさせられました。夕食と夜の散歩の合間にちょこっとずつしか手のつけられない編み物も印象的なのですが(スキマ時間も無駄にしません、というデキる主婦像のカリカチュア)、背が伸びてもなかなか出来上がらないつんつるてんの息子のセーターは、息子のある発言とともに、身体と精神のバランスが育まれていないことの象徴のように見えました。息子と、時々預かっている赤ちゃんの違いはいかばかりか……と考えさせられるのです。息子は難しい年頃ではありそうだけれども、どうもジャンヌが“心”を育むことにあまり興味がなさそうなのが気になります。自分の心に出会えていなければ、人の心を育むこともまた難しくなるのだということでしょう。
今はなき夫との愛情関係も、生存戦略としての結婚という側面が強かったようです。ジャンヌの強迫性は夫亡き後の愛と経済の困難を回避するため、だと思っていましたが、それだけでなく、どうも夫もシステマチックな家庭を作るのに加担していたようなところが今回見直して見えてきました。
もちろんこれらはジャンヌが悪いというのではなく、女性に(男性にも)定型的な生き方しか提供できてこなかった社会構造の問題であると思います。
こうして考えていくと、映画の結末はとても悲しいことだけれど、ジャンヌの心がようやく息を吹き返した(もしくは初めて誕生した)瞬間として捉えることが大事でしょう。心の誕生は苦しく、あっけない。
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臨床現場で出会う様々な方の守りのあり方を、社会と個人(の心)の狭間にあって尊重しつつしなやかに変容させていくことの大切さと難しさをあらためて考えさせられました。心理療法(特に古典的な力動的心理療法)は個人の変容にしか興味がないように見えるという批判は多くありますし、それはそのとおりだと私も思います。その批判に応えようとする動きも近年さかんになってきています。金剛出版から出されている雑誌『臨床心理学』などはその最たるものでしょうか。
古典的力動的心理療法であるユング派のトレーニングを受けながら臨床活動をすることの窮屈さに葛藤を感じることも多いのですが、そこを乗り越えていくことが一つの使命かと思い、あれこれ思索しつつ手足も口も、止めずにいたいと思っています。
人が心と出会うには。




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